第一人者
[阪田哲男] ゴルフ・トップアマのつぶやき
負け惜しみみたいに聞こえるかもしれないけど、
日本アマにこだわり続けたのは、世界アマの代表になりたかったから。
本当の目標は、そこにあったのです
★父親と同時にゴルフを始める
14歳のときでした。銀行の仕事をしていた父親がゴルフを始めるというので、一緒にゴルフ練習場に行くようになりました。特別な練習ということではなく、ただボールを打つだけ。野球少年だった当時、はじめから結構振れたし、曲がりながらも飛んでいたように思います。本格的にゴルフに取り組むようになったのは高校1年の夏からでした。大阪・明星高校の野球部で甲子園出場を目指していたのですが、1年生の僕は連日バッティング投手として投げ続けているうちに右肩を壊してしまったのです。これで野球は断念しました。そして、ひとりでも練習できるゴルフに熱中するようになりました。
★やるなら徹底的に
高校にゴルフ部なんてありませんでした。だから一人で勝手に部活動のつもりでゴルフに取り組みました。学校の帰りに大阪球場に通いました。1塁側から右翼スタンド下にかけて室内ゴルフ練習場があったのです。そのうち、その練習場でシングルハンディの人から教えてもらうようになり、とにかく毎日練習しました。南海電鉄の役員の方にも顔と名前を覚えていただけるようになり、コースでの練習やラウンドもできるようになりました。大阪ゴルフ倶楽部です。春休み、夏休み、冬休みはこちらで好きなだけ練習、ラウンドをさせていただきました。その代わりに普段の日曜日にはキャディをする、というのが条件です。アルバイトということではなく対等の交換条件だと言われて、厚意に甘えさせてもらいました。
★授業をさぼって関西アマ観戦
高校2年になって、アマの頂点に立つ中部銀次郎という存在を意識し始めました。いったいどんなゴルフをするのか。絶対に見ておかなければいかん。そんな思いで、関西アマの会場に足を運び、中部さんのプレーを追いかけたのです。桁違いのレベルでした。これがトップアマのゴルフなのか……。大きな衝撃でした。よし、自分もああいうゴルフをやれるように練習しよう、そんな意を強くして帰途についたことを覚えています。
★日本学生選手権に5回出場!?
日本学生選手権というぐらいですから、もちろん大学生の大会です。この試合に僕は高校3年生で出場させてもらいました。特別推薦ということで予選から挑戦させていただき、本大会まで進みました。結局、大学に進んでからと合わせて5回出場。これは、後にも先にも僕だけだと思います。このとき、小柄なのに物凄い飛ばし屋が非常に印象に残りました。それが名古屋商科大3年生の森道応さんです。この森さんから「一緒にゴルフをやって大学日本一を目指さないか」と名商大ゴルフ部に誘われて進学を決めました。森さんは練習のムシでしたね。この人に勝つには、自分はもっともっと練習しなければならない。その後、森さんに中部さんを紹介していただき、人の輪を広げさせていただきました。ゴルフをやってよかった。人とのつながりを実感するたびに、今でもそう思います。
★日本アマと世界アマ
日本アマに初めて出場したのは大学3年のときでした。70年です。東名古屋CCの会員になったことで、ようやく出場権を得られました。3位でした。そしてスペインで行なわれた世界アマの日本代表チームに選んでいただきました。世界アマ。そこは、また別世界でしたね。それこそ世界のトップアマが集まっている。日本アマとは、また違う何ともいえない雰囲気に満ちていました。僕は、この雰囲気に魅せられた。この中で戦い、そして勝ちたい。痛切に念じたものでした。僕の競技成績に欠けているもの。それは日本アマのタイトルで、同大会優勝は、僕の悲願になっている……よく、そう言われたり、書かれたりしています。間違いではないのですが、本当のところは別にあります。日本アマを追いかけたのは、そこで好成績を挙げなければ世界アマの日本代表チームに選ばれないからだったのです。84年大会で、ついに僕の願いは叶いました。チーム優勝、そして個人メダリスト。これこそが、僕にとっての最高の栄誉だと思っています。
世界アマ。それは、あのジャック・ニクラスはじめ、その後フィル・ミケルソンやタイガー・ウッズも戦ったステージです。今、思っていることがあります。石川遼君のことです。絶対に世界アマに出場してもらいたい。プロ入りは、それからでも遅くはありません。
(2008年1月25日発行 ゴルフ・トップアマのつぶやき総集編)